「型」を身につけること
- Mojo
- 2018年6月18日
- 読了時間: 5分
伝統芸能の継承者たる方々はジャンルを問わず皆さん「型」の重要性を説きます。 「型」とは文字通り表現の基本となるフォームやフォーマットのことです。 「型を身につける」ということは表現の基本技術を身につけるということになります。 これは何も伝統芸能に限らず芸事全てに共通することだと私は考えます。 よく「人を感動させるのは技術ではなくパッションやスピリットだ」等のことを言う方がおられます。 それはそれで一理あるとは思いますが、そういうことをわざわざ語る方ほど「型」についての認識が甘いと感じる事が多いというのも正直なところです。
狂言師の野村萬斎さんは「型」とは「デジタル」なものなのだと説明します。 例えば「指を揃えて手の甲を見せながらその手でうつむき加減の顔の表情をすっと隠す」という所作をすればそれは「泣いている」ことを表す「型」であると。 それらデータとしての「型」を自らの体にプログラミングしている(師からされた)のだと言います。 そんなデジタルな(0か1か、しかない)データをアナログな(0と1の間が無限にある)人間が組み合わせて表現を作り出しているという感覚なのだそうです。 そんな発想から自らの身体にモーションキャプチャー装置を取り付け、その動きと連動してCGを動かすといった新作狂言の舞台も生まれたのだそうです。
一方で彼は「型」をないがしろにしかねない過剰な表現や大きく逸脱した表現は好ましくないともいいます。 なぜならシンプルな「型」の表現が持つその表現力の神髄とは、観客の想像力を膨らませるものであって、説明するものではないからだと。 例えば前述の「泣いている」という所作・・・どう泣いているのか、きっと目に涙を一杯ためて堪えきれなくなってすっと一筋頬をつたうようなシーン・・・なんだろうな、などと観客にイメージさせるのが真の技術であって、ほら目に涙がたまってます!その目から涙がこぼれ落ちます!って説明しちゃうような演技はただの見せびらかしだということなのです。 これも芸事や芸術全てに共通することだと考えていいと思います。 観る者聴く者に想像する余白を与えない絵画や写真、音楽はきっとつまらないものです。
見せびらかしの技術じゃ人は感動しない。 でもやれパッションだスピリットだということを大上段に振りかざして、しっかりした「型」が身についていない人が「これが自分の表現だ!」と炸裂させるのもある意味見せびらかしと同義だと思うのです。 時に厄介なのは見せびらかし系の技術が大好きな同好の士の存在だったり、無茶苦茶なパッションの発露的な表現に対してやんやの喝さいを浴びせるオーディエンスの存在だったりします。 そんな上っ面の「いいね」で終わる場ほど寒いものはありません。
では、こと音楽、ロックだジャズだ何だひっくるめて、ことポピュラーミュージックを演奏する場合の「型」とはなんなのか? 当然ながらこと細かく言えば理論的にどうだとかはあるものの、そういう細かいことではなく、バンドやコンボといった形態における合奏・アンサンブルにおける守るべきフォーマット、これに気を配ることこそがまずは一番大事な「型」なんじゃないかと思うのです。 自分の出す音量は適切かどうか、そして相手の音をよく聞くこと、、カウントの"one"の位置を正しく意識すること、バックビートを感じること、そんな当然なことはもとより、例えばソロ回しになった時にソロを変なタイミングで切り上げたり(コーラスの尺を意識していない)、他の人がソロやメロディを奏でている時に余計なバッキングをしたりしていないかということも含め、共演者との心地よさを共有出来ているかどうか、これが一番大事だと思うのです。
こんな事は「型」以前の問題だという方もいらっしゃるかもしれませんが、そんな基本のキを意識しないまま音楽をやっている方は意外と多いと感じます。 ポピュラーミュージックのそのほとんどにはそれぞれ様式美といえるものがあります。 それ自体が「型」と言えなくもありませんが、その様式美を成立させるために「共演者との心地よさの共有」というのはどんな音楽を演奏するにしても共通していると思います。 なぜならそれこそがいわゆる「グルーヴ」というものに関わってくるからです。 一緒に演奏する者同士が心地よさを共有出来れば、それは自ずとオーディエンスにも心地よさを提供することに繋がります。
私はそこを目指すことこそが大前提として技術だと思うのです。 だからそもそも技術とパッションやスピリットを切り離して語ることに意味を感じません。 パッションやスピリットを表現するために磨くべき技術というものはあるのですから。 であるからこそ単に見せびらかしの技術は本当の技術ではないとも言えるのです。 技術や小知恵がつくことで失われてしまう感覚、初期衝動が薄まってしまうような感覚、表現がこじんまりとしてしまう感覚、そんな感覚に陥ることは無きにしも非ず。 でもそれも己との戦いだと思うのです。 技術を磨いたら演奏がつまらなくなった、自分らしくなくなる感じがした、とか、もしあるとするならそれはそもそも技術の磨き方を間違えているか、その程度の「自分らしさ」だったということを思い知ることに対する言い訳かのどちらかです。
少なくとも「型」を持たない「自分らしさ」は私にとってポップでもエンターテインメントでもありません。 アートだと言い張るならどうぞご自由に。