音楽を学ぶということ
- Mojo Yamauchi
- 2016年11月1日
- 読了時間: 5分
このヴィクター・ウッテンのTEDプレゼンテーションは本当に素晴らしくて、何度観ても「本質を突いているなぁ」と思う。
と同時に、文脈をちゃんと捉えなければ本質を見誤ることにもなりかねないなとも思う。
教える立場にある者として、子供に教えるのか大人に教えるのかも含め、生徒との向き合い方について考えさせられるのです。
母国語を「教わって話せるようになった」という意識がある人はまずいないでしょう。 いつの間にか、無意識のうちに話せるようになっていたはずです。 だから音楽を学ぶことも言語習得と同じステップで考えればいい。 赤ちゃんは何も上手に話せなくても上手に話せるプロと常にジャムセッションしている状況を過ごすことによって自ずと言葉を話せるようになるのだから、音楽もそうあるべき・・・だと。
理想的な考え方ですが、ひとつ明確にしておかなければいけないのは、その赤ちゃんに接してジャムセッションしているプロとは母親であり父親であり、赤ちゃんに対して無償の愛を注いでくれる存在であるということです。
果たして音楽教師が生徒に対してそこまで出来るのか? いやいやいや(苦笑)
でもヴィクターはこうも言っています。
「僕は最初に楽器を学んだわけではない。まず最初に学んだのは音楽そのものであって、その後その音楽を楽器を通じて表現することを学んでいったのです」
実はここが一番大事なポイントなんだよなぁ。
自分が何を話すかなんて先生から教わるわけではない、なのに音楽教師は「言葉」を教えてしまう、つまり「音楽」を理解する前に「楽器」を教えてしまう、その上練習を強制する・・・
赤ちゃんが母親や父親の話す言葉を聞いてそれに反応するのと同じように、まずは母親・父親たる音楽をよく聴くこと。それが学びの第一歩なんですよ。
母親が機嫌をとるように声のトーンを上げたその「あやし」の意味や、父親が注意するときに声のトーンを下げたその「しつけ」の意味などを感じ取るのと同じように音楽を聴くことが大事なんです。
それを踏まえていればこそアンサンブルに入った時に相手が出す音の意図も汲み取れるし、相手に自分の意図を伝えられるようになるのであって、自分の出す音・言葉に一杯一杯になることはないのです。
さて、
まずは言葉・音楽の「心地よさ」を体で感じ、それを自由にのびのびと表現させる・・・のはいいとして。
赤ちゃん言葉はいつしか大人の言葉遣いに変化していくものですよね。
「わんわん」「にゃんにゃん」はいつしか「犬」「猫」になるわけですが、 そもそも最初は「わんわん」と「にゃんにゃん」の明確な区別もついていなかったはずなんですよね。 どっちも4本足で歩いてるし。
恐らく音楽教師がやりがちなミスは「わんわん」と「にゃんにゃん」の区別がついていない状態の生徒に「犬!」「猫!」って言葉を教えちゃってるってことのような気がします。
「わんわん」「にゃんにゃん」と声に出すほどの興味を持ったら何が「わんわん」で何が「にゃんにゃん」かというステップに行くはずなんですよね。
なのに下手すると最初から「ゴールデンレトリーバー!」「アメリカンコッカースパニエル!」「スコティッシュフォールド!」「マンチカン!」「さあ言え!」と教えてる場合もあるかもしれません。
意外と厄介なのは「ゴールデンレトリーバー」とか「スコティッシュフォールド」とか知ってて言えるんだけれど、それが大きな括りで「わんわん」であったり「にゃんにゃん」であったりすることをすっ飛ばして覚えている大人だったりします。
「これは『わんわん』、これも『わんわん』、これも『わんわん』なんだよ。全部違うように見えるけど全部『わんわん』の仲間なんだよ。それを『犬』って言うんだよ」 っていうのを経てないと、そもそも「『わんわん』とは何ぞや」ってことを感覚的に理解していなかったという壁にぶち当たることになるんです。
ここが理論の本当の入り口なんですけどね。
子供の頃の順番で言うと、書くことを習う前にまず言葉を話し始めているわけですから、同様に音楽の場合もよく聴きそれを真似ることによって自ずと上達することは可能だ、とは言えます。
しかし経験上、会話している分にはコミュニケーション上何の問題もないような人でも、メールやSNSといった場面での文章がとても読みにくかったり、意図が伝わらない文章を書く人というのも存在します。
言葉を習得しているはずなのに、です。
ツールとして使いこなせていないと考えれば、文章の上手い下手っていうのこそ、実は楽器の演奏スキルに似ているんじゃないかと思います。
普段「これが主語、これが述語、助詞、接続詞」などと文法のことを考えながら話す人はいないでしょう。 でも無意識に「てにをは」を使い分けたりということはほとんどの人が大体出来てるはずです。 全員出来てるとは言いません(苦笑)が、コミュニケーション上問題がある人はごく少数だと思います。 ところが文章となると、句読点の打ち方、段落のつけ方、改行のポイントといった「いかに読みやすく相手に伝わるように書くか」という配慮に欠ける人は少なくありません。 というか、そもそもそういうことが配慮にあたるテクニックだと思っていないのかもしれません。
この人が好き、あの人が好き、という具合に自分が影響を受けているということでレジェンド級のアーティストの名を出すような人でも、そう語るご自身の演奏スキルには首を傾げたくなるようなこともままあります。 つまり凄いアーティストの演奏の素晴らしさや心地よさは感じているのに、それを真似出来ていないのはちゃんと(深く)真似してこなかったということの証左です。
そういう人ほど「真似は真似。真似している限りいつまでたってもその人を超えられない」といって自分のスタイル、オリジナリティに悩んだりするもんです。 悩んでいる暇があったらもっと真似したらいいのに。 あのパブロ・ピカソだって晩年までずっと模写を続けていたのですから。
書の世界ではそれを「臨書」というのだそうです。 書家の柿沼康二さんはこう言ってます。 「真似て真似て・・・それでも真似しきれず零れ落ちてくるものが個性」